2020-04-20T08:10:01
アッラーの別名の1つにアル・ナーフィウ(裨益者)があります。だから人間も役に立つことをしなくてはいけません。「下町ロケット」というドラマを見ると、本物の技術で社会に役に立つことに誇りを持つ職人の生き様を感じます。一見するとすぐに役に立ちそうにないものでも、長期的には役に立つ、だから半端なものを作らない。本物にこだわる日本人の気質を見ました。私は日本刀と刃物の町関市で生まれ育ったのでよくわかります。この気質をイスラームの信仰に転換すれば、本物の神だけに従うことの意味がわかります。「アッラーの他にかれらが祈っていたかれらの神々は、あなたの主の命令が来たとき、かれらに何も役に立ちませんでした。そしてかれらは、ただ破滅を助長するだけでした」とクルアーン11:101にあります。本物の神はアッラーのことですが、これまでお伝えしてきたように、アッラーとは99の名前(価値)のことです。例えば、感謝すること(アル・シャクール)、保護すること(アル・ワキール)、真理を追求すること(アル・ハック)、人の役に立つこと(アル・ナーフィウ)などです。この価値は時代や場所に囚われず、ぶれることのない永遠の価値を有します。その価値を現世において体現することが、ムスリムの使命であり、アッラー(究極の価値)を信じているという意味なのです。その具体的な体現方法は、預言者の生涯から学ぶことができますが、時代や生きる環境とともに状況は変わる(そもそも日本はアラブ社会とは違う)ので、まず価値のレベルまで昇華させることが必要です。そうすれば、イスラームは時空を超えて、どの人種や民族にも役に立つ宗教なのです。
2020-04-14T23:26:55
الْمُسْلِمُ مَنْ سَلِمَ النَّاسُ مِنْ لِسَانِهِ وَيَدِهِ وَالْمُؤْمِنُ مَنْ أَمِنَهُ النَّاسُ عَلَى دِمَائِهِمْ وَأَمْوَالِهِمْ The Muslim is the one from whose tongue and hand the people are safe, and the believer is the one from whom the people’s lives and wealth are safe Sunan an-Nasa’i 4995 (Sahih) 有名な以下のハディースがあります。 信者(ムスリム)とは、その舌と手から人びとが安心(サリマ)できる人のことです。 信仰を守る人(ムウミン)とは、人の命と財産を信託(アミナ)できる人のことです。 (スナン・アン・ナサーイ 4995) 新型コロナウイルスの影響で、夫婦内での暴力事件も起きていますが、ムスリムは他人に舌と手で害を及ぼしてはいけません。 アッラーの別名にはアル・ムウミン(信仰を守る方)があります。だからムスリムはさらに上位のムウミンをめざします。ムウミンは害がないだけでなく、大切なものを信託される人のことです。
2020-04-13T23:49:37
問題は起こる前に予防すること 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない毎日です。ムスリムは問題が起こる前に感染予防する必要があり、それからアッラーを信頼する必要があります。次のようなハディースがあります。 ある日、預言者ムハンマドは、ベドウィンがラクダを縛らずに残していることに気付きました。彼はベドウィンに尋ねました。「ラクダを結ばないのですか?」ベドウィンは「私はアッラーを信頼しました」と答えました。すると預言者は「ラクダを結んでから、アッラーを信頼しなさい」と言いました(ティルミディ2517) ムスリムは、アッラーはアル・ワキール(受託者)だと信じています。アッラーの99の美称の1つです。ワキールとは保護者、代理者、弁護者としても翻訳できます。 حَسْبُنَا اللَّهُ وَنِعْمَ الْوَكِيلُ ハスビヤッラーフ ワ ニヤマル ワキール 「アッラーがいれば十分です。そしてかれは究極の保護者なのです」クルアーン3:173 それは私たちが頼ること(タワックル)ができる方です。私たち人間も保護者として、子供たちの世話をします。弁護士として被告人を助けます。もしくは保護してくれる方々が周りにいるかもしれません。そして究極の保護者はアッラーです。ただし、自ら何もしないで保護者に頼っているわけではありません。困難に直面したとき、ムスリムとしての私たちは、状況を変えるために私たちの力でするべきこともしなければなりません。しかし何より問題が起こらないように、自ら最善を尽くしてから、保護者に頼り、彼が保護してくれると心から信じなさいということを、このハディースは教えてくれます。
2020-04-12T05:33:18
ムスリムにとって必要なこと① アッラーについて知ることです。 クルアーンによるとアッラーには99の美称があり、そこからアッラーの特性を知ることができます。 例えば、アル・シャクール(感謝する者)があります。 アッラーは、人間が行なう僅かな善行にも感謝し、その報酬を倍加します。かれの感謝の方法は、人間に恩恵を与えることです。 しかも、アル・シャクールは人間の心にそのような良い行ないをしたいという願望を植え付け、それを実行するための手段を提供してくれるので、あとは人間が感謝するかしないかの問題になります。 ムスリムはアッラーを信じます。言い換えれば、アル・シャクール(感謝する者)を信じるということです。つまり人間も「感謝すること」を大切と信じていることになります。 だからムスリムも感謝する者にならないといけません。 アル・シャクール(感謝する者)は小さなものを受け入れ、多くのものを与える者です。クルアーン14:7には「もしあなた方が感謝するならば、私は必ずあなた方にもっと(報奨を)与えるでしょう」とあるのです。
2020-04-11T12:47:39
▪アッラーへの服従を体現する行為 ▪アッラーの喜びを得ることに喜びを感じる ▪罪の消去 ▪心身のデトックス ▪欲望のコントロール(自制力) ▪我慢と忍耐力の強化(悪行をしない) ▪貧者や困窮者への共感 悪魔の影響が弱くなり、善行が増すこと
2020-04-08T13:17:28
ムスリムはノンムスリムの葬儀に出席してもいいですか? 回答 ノンムスリムの友人や親戚の葬式に出席することを妨げる法的な障害はありません。イマーム・アン=ナワウィは彼の著書(al-Majmu)で「ムスリムがノンムスリムの親戚の葬式に出席することは、忌み嫌われる行為ではない」と述べ、同じことをイマーム・アル=シャフィイーも述べました。 彼がノンムスリムであっても、親族の葬式に出席することは、イスラムのシャリーアによって命じられた親族のつながりを強化します。洗練されたマナー、他者との良好な関係、忠誠心、愛の証として、親族の葬式に出席することも重要です。同様に、親族の葬儀に出席することは、家族におけるイスラムへの尊敬と称賛を高め、イスラムが共存と調和を促進するという肯定的な印象を与えます。 また、神がクルアーンで言っているように、哀悼の意を表すことは、礼儀正しさと高い倫理観の一部であるため障害にはなりません。例えばクルアーンに以下の言葉があります。 60:8 「アッラーは、信教上のことであなた方と戦いを交えず、またあなた方を家から追放しなかった人たちに、親切で公正にすることは禁じません。実にアッラーは、公正な人をお好みになります」 2:83 「わたしがイスラーイールの子孫と約束を結んだときのことを思い出しなさい。アッラー以外に信仰しないこと、両親、近親、孤児たち、貧しい人たちに善くすること、人びとに善い言葉で話し、礼拝の務めを守り、定めの施しすることです。(しかし)その後、あなた方のわずかな人たちを除いて、背を向けて拒否しました」 哀悼の意は人々に良いことを話すことの一部です。また、自分のコミュニティに参加する良いムスリムのロールモデルになるように、家族や親戚に対して親切で寛大になるようにします。イスラームは、洗練されたマナーと、人々の喜びと悲しみの瞬間を共有し、共感と慈悲を広めるよう教えるのです。 https://www.dar-alifta.org/Foreign/ViewFatwa.aspx?ID=5935
2020-04-06T13:33:30
慈悲あまねく、慈悲深いアッラーの御名において 50:1.カーフ。栄光に満ちたクルアーンにかけて誓う。 2.いや、かれらは自分たちの間から一人の警告者が現れたことに驚き、そこで不信心な人たちは言います。これは全く不可解なことである。 3.わたしたちが死んで塵になっても(また生き返るの)か。そのような戻り方はあり得ないと。 4.われらは大地が、かれら(の埋葬された遺体)から何を取り去るかを、よく知っています。またわれらの手元には、記録の帳簿があります。 5.ところが真理が訪れたとき、それを虚偽としたので、かれらは混乱に陥ったのです。 6.かれらは頭上の天空を見ないのでしょうか。われらがいかにそれを創造し、いかにそれを飾ったことか。そしてそれには、少しの裂け目もないことを。 7.また、われらは大地をうち広げ、その上にずっしり山々を据え、その中にあらゆる種類のすばらしい草木を生い茂らせることを。 8.(それらは)改心して(アッラーの御元に)帰るすべての僕にとっての、教訓であり示唆です。 9.さらにわれらは、恵みの雨を天から降らせて、庭園や収穫の穀物を豊かに生長させ、 10.またびっしりと実を付けた背の高いナツメヤシの木を、 11.(アッラーの)僕たちの食料として(生育させる)。またそれ(雨)で、われらは死んだ大地を蘇らせることを。出所(墓からの復活)にしても同じことです。
2020-04-03T11:42:09
イスラームにおいて「お金を持っている」ということは、 その人の財産の一部には、貧しい人の権利があるという意味になります。 クルアーンの70章より 19.人間は、気ぜわしく創られているのです。 20.悪いことに出会うと嘆き、 21.良いことに出会えばけちけちします。 22.だが礼拝する人はそうではなく、 23.いつも礼拝をしている人、 24.また自分の財産に施しに回す分があり、 25.物乞いや窮乏する人のために(施す者)、 26.審判の日を真実とする人、 27.また主の苦痛を恐れる人も。 28.確かに主の苦痛から(逃れて)、安全な人はいないのです。 29.また自分の陰部(貞操)を守る人、 30.その妻や右手の所有する人(奴隷)だけ(を求める人)の場合は別で、かれらは罪に問われません。 31.しかしこれ以外に求める人は、境界を越えた者です。 32.信託されたことや約束を守る人、 33.証言に当たり正直な人、 34.また礼拝を厳守する人。 35.これらの者は楽園の中で、栄誉を授かります。
2020-04-02T06:10:30
(1)イスラーム関連文献の精読と分析により、クルアーンという啓示の根底には「神のある因果応報」があることがわかった(神による因果応報と区別)。ちなみに近代科学とは、見て測り、測定値の間の関係性を頼りに、自然社会現象の総体を解釈する方法であるが、見えないものは測れない、測れないものは科学の対象にはならないため、見えない神を排除する思想的基礎を持つ。 (2)啓示は人間の五感や知性を駆使してもわからないけれど、人生の重要事項について、明確な知識を提供してくれることがわかった。例えば、来世(死後)の状況と神の特性(役割)、善悪・社会規範(食物規定・婚姻・取引・遺産相続など)の基準などが挙げられる(そして人間が善悪を「獲得」する)。 (3)預言者ムハンマドに対する啓示の方法には5つあり、1)鐘の音や蜂の羽音として、2)ジブリールが人間の姿になって、3)ジブリールが天使の姿で、4)アッラーとの直接会話を通じて、5)直接ムハンマドの心に吹き込まれて、クルアーンが啓示されたことがわかった。 (4)啓示の時系列としては、1回目の啓示が「護持された書板(アル・ラウフ・アル・マフフーズ)」から、天使たちの「権勢の館(アル・バイト・アル・イッザ)」であり、2回目の啓示は「偉力の館」から預言者ムハンマドに23年間かけて緩やかに啓示されたことがわかった。 (5)最初に啓示された節は第96章1-5節で、最初に啓示された章は第1章であることがわかった。 (6)マッカ啓示とマディーナ啓示があることがわかった。前半の約13年間はマッカで、後半の約10年間はマディーナで啓示された。厳密には両方が混じり合っているものもある。マッカ啓示でも、マッカ以外の地で啓示されたもの、マディーナ啓示であってもマディーナの地以外で啓示されたものがあることがわかった。マッカ啓示は短く、アーダムとイブリースの話(2章例外)や「人びとよ」の呼びかけで始まるものが多く、神の唯一性、審判の日、来世、預言者性、多神教徒などを扱い、他方マディーナ啓示は長く、「信仰する人たちよ」の呼びかけで始まるものが多く、社会法制度、戦闘、啓典の民、偽信者などを多く扱っていることがわかった。 (7)クルアーンは異教徒の質問や社会状況などに合わせて、段階的に啓示されたことがわかった。 (8)啓示された背景及び理由を理解することは、クルアーンの理解に不可欠であることがわかった。例えば、2章221節(多神教徒との婚姻禁止)、4章3節(一夫多妻)、9章118節(タブーク遠征に出陣せず赦しが保留された3人)などが多く挙げられる。 (9)クルアーンの保存プロセスとして、1)預言者時代:暗記+羊皮紙、動物の骨、石版、ナツメヤシの枝などに記録、2)アブー・バクル時代:ザイド・イブン・サービットにクルアーンの編纂を命じ、「ウンム」(各章ごとのフォリオ)が完成、3)ウスマーン時代:「ウンム」を底本とする7つの写本「ムスハフ・ウスマーニ(ウスマーン版ムスハフ)」(章節の順番は預言者の命じた通り)が作成されたことがわかった。 (10)天使ジブリールとムハンマドとの最後の「読み合わせ」の結果、クルアーンは暗記者の記憶とその後ウスマーン版ムスハフ(書物としてのクルアーン)として保存されたが(19章97節:あなたの舌=クライシュ族の言葉、75章17-18節:われら(アッラー)がそれを読んだとき、その読誦に従いなさい)、ウスマーン版には発音記号がなく、複数の方法で読解・音読される余地が残されたことがわかった。 (11)現在イスラーム世界で最も流布している読誦はアースィム読誦法(伝承者ハフス経由)である。クルアーンのある読誦法が正統となる条件には、1)ウスマーン版ムスハフに、そのように読誦できる余地があること、2)アラビア語の文法に即していること、3)読誦法の伝承経路が預言者まで遡ることができること、があることがわかった。 (12)クルアーンの複数の正統な読誦法は、1)信者への軽減措置、2)模倣不可能性の明示、3)単独の節における複数の法規定(例:5章6節)、4)複数の読誦による単独の法規定(例:2章222節)などの意義を持つことがわかった。
2020-03-31T17:17:56
61.かれに称賛あれ。かれは天に星座を設け、またその中に灯明(太陽)と照り輝く月を設けました。 62.かれこそは(アッラーに)留意して感謝しようとする人のために、夜と昼を交互に設けた方です。 63.慈悲深きお方の僕とは、謙虚に地上を歩く人たちで、無知の人たち(非信者)が話しかけても、かれらは平安あれと応えます。 64.また、かれらはかれらの主(アッラー)の御前に平伏礼して、立礼して夜を過ごす人たちです。 65.また、かれらはこう言う人たちです。わたしたちの主(アッラー)よ、地獄の苦痛(懲罰)をわたしたちから遠ざけてください。確かにその苦痛は過酷なもので永遠に続きます。 66.実にそれは悪い住まいで、悪い休憩所ですと。 67.また、かれらが(金銭を)使うときには浪費をせず、けちでもなく、その間を適正に保つ人たちです。 68.また、かれらはアッラーと共に他の神に祈らない人たちです。また、正当な理由がない限り、アッラーが禁じた殺生をしない人たちです。また、姦婬しない人たちです。もちろん、そのようなことをする人は、懲罰を受けます。 69.復活の日にはかれへの苦痛(懲罰)は倍加され、その恥辱の中に永遠に住むのです。 70.ただし、改心し信仰して善行に励む人は別です。アッラーはかれらの悪行を、善行で置き変えます。アッラーはよく赦すお方で、慈悲深いお方なのです。 71.改心して善行に勤しむ人は、確かにアッラーに悔いて戻るのです。 72.また、(慈悲深きお方の僕とは)嘘の証言をしない人たちで、かれらは無駄話をしている側を通るときは、(それに係り合わないで)品位を持って通り過ぎるのです。 73.また、かれらはかれらの主(アッラー)の印が想起されると、耳が聞こえない人や目が見えない人のように振る舞わない人たちです。 74.また、かれらは(祈って)こう言う人たちです。わたしたちの主(アッラー)よ、自分たちの目の癒し(心の安らぎ)となる妻たちと子孫たちをわたしたちに与え、わたしたちを(アッラーを)意識する人びとの模範にしてくださいと。 75.これらの人は耐え忍んだことによって、最高の位階(楽園)を授けられます。また、そこで挨拶と平安の祈願で迎えられます。 76.その中に永遠に住むのです。その住まいと休息所の何とすばらしいことか。 77.(非信者に)言いなさい。もし(アッラーに)あなた方が祈らなくても、わたしの主(アッラー)はあなた方を気にしないでしょう。確かに、あなた方は拒否しました。やがて避けられない(懲罰が)来るのです。
2020-03-26T09:38:39
61. かれに称賛あれ。かれは天に星座を設け、またその中に灯明(太陽)と照り輝く月を設けました。 62.かれこそは(アッラーに)留意して感謝しようとする人のために、夜と昼を交互に設けた方です。 63.慈悲深きお方の僕とは、謙虚に地上を歩く人たちで、無知の人たち(非信者)が話しかけても、かれらは平安あれと応えます。 64.また、かれらはかれらの主(アッラー)の御前に平伏礼して、立礼して夜を過ごす人たちです。 65.また、かれらはこう言う人たちです。わたしたちの主(アッラー)よ、地獄の苦痛(懲罰)をわたしたちから遠ざけてください。確かにその苦痛は過酷なもので永遠に続きます。 66.実にそれは悪い住まいで、悪い休憩所ですと。 67.また、かれらが(金銭を)使うときには浪費をせず、けちでもなく、その間を適正に保つ人たちです。 68.また、かれらはアッラーと共に他の神に祈らない人たちです。また、正当な理由がない限り、アッラーが禁じた殺生をしない人たちです。また、姦婬しない人たちです。もちろん、そのようなことをする人は、懲罰を受けます。 69.復活の日にはかれへの苦痛(懲罰)は倍加され、その恥辱の中に永遠に住むのです。 70.ただし、改心し信仰して善行に励む人は別です。アッラーはかれらの悪行を、善行で置き変えます。アッラーはよく赦すお方で、慈悲深いお方なのです。 71.改心して善行に勤しむ人は、確かにアッラーに悔いて戻るのです。
2020-03-24T07:30:17
2:255 かれの玉座は諸天と地に果てしなく広がりました。またそれら(天と地)を護持することで、かれが疲れることはありません。 32:4.アッラーこそは6日の間に諸天と地、また、それらの間のすべてのものを創造し、さらにかれはかれ自身を玉座の上におかれます。 アッラーは空間や時間に制限されません。だから宇宙空間の中にはいないのです。ただし、アッラーは全てをご存知という意味で、かれは人間の頸静脈よりも近いとされています。 50:16.確かにわれらは人間を創ったのです。そしてその魂がその人にささやくことも知っています。われらは頸静脈よりも、その人に近いのです。 ではアッラーはどこにいるのでしょうか?宇宙空間と時間の「外」としか言えません。 宇宙の果て=観測の限界 Sean Carrollカリフォルニア工科大学物理学研究教授 。 私たちの知る限り、宇宙に端があるという科学的な証拠はありません。観測できる範囲には限りがあるので、そこがわたしたちにとって“宇宙の果て”になるといえます。 Arthur B. Kosowskyピッツバーグ大学物理学教授: 残念ながら、わたしたちにはまだ宇宙に果てがあるのか、ないのかという問いに対する妥当な答えがありません。もし果てがあるとしたら、それはずっと遠く宇宙の歴史全体という時間をかけても、なおわたしたちのもとに到達しないほど遠い場所だといえます。現段階では、観測できる宇宙の全体でなく一部を端として考えるほかないのかもしれません。 アッラーが宇宙空間と時間の外にいるなら、人間には見ることができないということになります。だからアッラーを科学的に証明できないことになります。科学的に証明できないからと言って、それは科学の限界の問題であって、アッラーがいないとは言えないのです。しかし、アッラーの印(天地全て)は観測可能なので、アッラーの存在を信じることはできるのです。
2020-03-23T07:59:33
日本教徒の祖と呼ばれるハビアンは儒教、神道、仏教、キリスト教を棄教した人物です。彼は儒教、神道、仏教、キリスト教の何を批判したのか? ハビアンの論理を知るとイスラームの論理との類似点が見えてきます。 1)破・儒教 儒教では、万物の根本となっているのが天地陰陽ということですけれども、そもそもそれを生じさせた主体は何か。儒教の教典ではどこまでも説かれないままです。その理由は、天地の創造主が存在することを知らないからであると、ハビアンは喝破します。ものごとの成り立つ根本を天地陰陽に置いていて、その作者を言わないことからつきつめていくと、堂々巡りの議論にしかなりません。 2)破・神道 神道はどうか。日本神話においては、天地開闢で、多くの神々が系図のように説明されています。日本書紀によれば、冒頭で国常立尊(クニトコタチノミコト)が現われます。注目すべき点は、国常立が天地を開いたのではなくて、天地が開いてそこから国常立が生じたと書かれていることです。つまり、日本神話においても、天地を創造した創造主のことは、はっきりとは書かれていないことになります。 3)破・仏教 仏教各宗が様々な教理を説くが、「釈迦や仏は人間にすぎない」「仏教の本質は空や無である」「仏教はすべての存在は自分の心が生み出したものである」と批判する。結局は一切が空と悟るのであり、たとえ成仏するといっても、その実は空無に帰することだから、仏教による霊魂の救済はあり得ないと結論する。超越的存在との関わりについて触れていない。 4)破・キリスト教 「破提宇子Deus destroyed」では「キリストは神でなく人だ」 「誰が頼んだのでもないのに無数の人間を造って地獄に堕し、永久に尽きぬ苦しみを重ねさせるのを大慈大悲のデウスと言えるの?」 「神が世界を創造して、全知全能だというなら、なんで悪魔なんていう存在を許すの?」 「アダムとイブが、甘柿を食べたぐらいで人類に罪を負わせるなら、デウスは慈悲深くないでしょ?」 「キリストが救い主だとするならば、人間の堕罪以降、その誕生の遅さはなぜ?」 「キリスト教的ゼウス」の否定であって、いちばん最初の人間を宇宙に生み出し存在せしめている、何か大きな力、人間の力を超えた大本の力の存在を否定していない。 2008年5月29日付け読売新聞に掲載された日本人の宗教意識調査で72%が「無宗教」と答えている一方、「人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めました。新聞の解説は、多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔さを大切に考える傾向が強いと述べています。 例えば、宇宙を観察すると、宇宙は極めて複雑・精妙・壮大な秩序と組織から成り立っている太陽や星の運行、動植物の構造、それらの相互連関など、あらゆるものがそれぞれの目的に合わせて精巧に設計されていることがわかります。 ニュートンやアインシュタインなど天才物理学者たちの多くは、有神論者でした。天才たちにとって神という超越的存在は自明であり、彼らは、純粋な数学的思考だけで、この美しい宇宙はどのように始まったのか?についての「神の設計図」や「神の数式」をディスカバリーすることに、これまでにない知的喜びを感じてきました。この「神の数式」が発見されれば、人間は自分達の言葉で、創造主の存在を確認することになるわけです。 クルアーンにおいてこの超越的存在をアッラーと呼びますが、アッラーは人間が彼の存在に気づくよう様々な印を散りばめたのです。イスラームのユニークな点は、神の存在を証明できるクルアーンという物的証拠があることです。そこで映像を見ながら、クルアーンに記された神の印を確認してみましょう。 製品にはそれを作る職人がいるように,この世界には宇宙を創造した超越的存在がかならずある。その超越的存在がなにであるか。人々はその超越的存在を天、理、老子、ブッダ、キリストなどに比べようとするがいずれも超越的存在ではない。超越的存在とはまず人間ではない。人間は造られたものであり、また生死を免れることができない。天は地と対になる造られたモノである。理とはその造られたモノにくっついた意味である。超越的存在とは形象をもたないが確実に存在し,天と人を造化し、理と気をめぐらせるものである。したがって天、理、老子、ブッダ、キリストは超越的存在ではありえないことになる。この点を日本教徒の祖ハビアンは見抜いていた。 超越的存在が何なのかについて書かれたものはありません。一方、周りを観察すると、世界は極めて複雑・精妙・壮大な秩序と組織から成り立っている太陽や星の運行、植物の花や葉や枝のつくり、動物の身体の構造、これらの相互連関など、あらゆる存在者がそれぞれの目的に合わせて精巧に設計されていることがわかる。このような複雑かつ美しい世界を設計したのが「人知を超越した存在」です。 3章190節曰く「本当に天と地の創造、また夜と昼の交替の中には、思慮あるものへの印がある」のです。
2020-03-19T07:22:04
シャカル・ビン・フマイド(ra)が伝承によると、私は尋ねました。「アッラーの使者よ、ドゥアーを教えてください。」 彼(ﷺ)は次のように言った。「アッフンマ・インニ・アウドゥ・ビカ・ミン・シャリ・サミイ、ワ・ミン・シャリ・バサリ、ワ・ミン・シャリ・リサーニ、ワ・ミン・シャリ・カルビ、ワ・ミン・シャリ・マニーイ(私の聴覚の悪、私の見ることの悪、私の舌の悪、私の心の悪、私の性的情熱の悪からお守りください)と言いなさい」 [アブ・ダウードとアッ・ティルミディ] これは単純ですが、罪を避けるための非常に強力な方法です。 私たちは、悪について考えたり、悪を言ったり、悪を見たり、悪を聞いたりしないので、悪を行いません。
2020-03-18T10:58:25
意見:ハラール認証は無料であるべき 反論:ハラール認証は有料であっても構わない。基準を断定できるのはもちろんアッラーと預言者。だからムスリムはクルアーンとハディースの基準に従う努力をしている。基準はすでにある。その基準に、ある特定の食べ物や商品が合致しているか否かを判断するのは人間。例えば、ハッジ(メッカ大巡礼)という宗教行為自体は無料ですが、ハッジの「旅」は有料。なぜなら、日本からサウジアラビアのメッカに行くには飛行機代がかかるし、メッカでの宿泊代や食費も当然有料。無料では持続可能性がない。もし個人に100社からハラール認証の依頼が来たらどうするか?ハラールは「イスラーム法的に合法な」という意味で、認証はイスラーム法の基準に合致しているかを確認する行為。 では、人間であれば非ムスリムであってもハラールの基準さえわかっていれば、認証できるのか?2015年12月末にタイのバンコクで開催された「国際ハラール会議」では、世界各国のイスラーム法学者を含めたハラール認証団体が全会一致で「非ムスリムはハラール認証できない」と決まりました。理由は、ハラールは極めて宗教的行為であり、徹底した「イスラーム法の遵守」を、法の遵守を義務としない非ムスリムに依存することはできないからである。
2020-03-17T05:56:38
Q1ハラールとは?・・・「合法的に」「ある法律に基づいて」 ※法を遵守している限り、非ムスリムであってもハラール商品(屠畜除く)を提供することは可能 Q2ハラール認証の目的は?・・・「疑わしいもの(シュブハー)」を明確にすること الْحَلاَلُ بَيِّنٌ وَالْحَرَامُ بَيِّنٌ وَبَيْنَ ذَلِكَ أُمُورٌ مُشْتَبِهَاتٌ لاَ يَدْرِي كَثِيرٌ مِنَ النَّاسِ أَمِنَ الْحَلاَلِ هِيَ أَمْ مِنَ الْحَرَامِ فَمَنْ تَرَكَهَا اسْتِبْرَاءً لِدِينِهِ وَعِرْضِهِ فَقَدْ سَلِمَ وَمَنْ وَاقَعَ شَيْئًا مِنْهَا يُوشِكُ أَنْ يُوَاقِعَ الْحَرَامَ (ティルミズィー)「ハラールは明確であり、ハラームも明確である。しかしその間には疑わしいものがある。 多くの人はそれがハラールかハラームかわからない。だから誰でもそれを避ける者はその宗教と名誉を守り、 安全である。誰でもそれに手を染める者は、じきにハラームに手を染めるようになるであろう」 Q3アルコールはハラールか?→◎クルアーン・・・酔わせるもの(ハムル)=飲料用アルコールはハラーム ※アルコールはエタノールを含むアルコール類の総称:飲料用のアルコールは果物や穀物から生成 2:219「かれらは酔わせるもの(酒など)と賭け事について、あなたに問うでしょう。言いなさい。両方とも大きな罪です。これらは人間のために便益もあるけれど、便益よりも罪の方が大きいのです」 4:43「信仰する人たちよ、あなた方が酔ったときは、自分の言うことが理解できるようになるまで礼拝に近づいてはいけません」 5:90「信仰する人たちよ、誠に酔わせるもの(酒など)と賭け事、偶像や占い矢は不浄な悪魔の行為です。だからそれを避けなさい。そうすればあなた方は成功するでしょう」 كُلُّ مُسْكِرٍ خَمْرٌ وَكُلُّ مُسْكِرٍ حَرَامٌ (ナサーイー)「全ての酔わせるものはハムルであり、全ての酔わせるものはハラームである」 حُرِّمَتِ الْخَمْرُ بِعَيْنِهَا […]
2020-03-13T15:39:28
クルアーンは全部で114章ある。その真ん中が57章、章の名は「鉄」章。なんと地球の中心の中心である内核を形成するのは「鉄」である。これは偶然の一致か? クルアーンの鉄章を引用する。 1.諸天にあり地にあるすべてのものは、アッラーを賛美します。実にかれは偉力大で英明です。 2.諸天と地の大権は、かれのものです。かれは生を授け、また死を授けます。かれはすべてについて全能です。 3.かれは最初の方であり、また最後の方で、外在する方であり、また内在する方です。かれはすべての事物を熟知します。 4.かれは諸天と地を6日間で創造し、それから玉座に鎮座したお方です。かれは大地に入るもの(水や種子や死体など)、またそれから出るもの(植物や鉱物など)をすべて知り、また天から降りるもの(雨や天使や啓示など)、そしてそこに昇るもの(魂など)を知り尽します。あなた方がどこにいようとも、かれはあなた方と共におります。アッラーはあなた方が行なうすべてのことを洞察します。 5.諸天と地の大権は、かれのものです。(一切の)事物は、アッラーの御元に帰ります。 6.かれは夜を昼の中に没入させ、また昼を夜の中に没入させます。また胸に秘めることをすべて熟知します。
2020-03-09T13:39:40
ムスリムとは、アッラーに意識的に従う人びとを意味します。そして日本におけるムスリムの役割は、大きく2つに分類することができます。1つ目は、自分自身の行動に関する役割で、2つ目は非信者(ノンムスリム)との関係における役割です。1つ目のムスリム自身の行動については、ムスリム社会に住んでいようと日本に住んでいようと義務やハラームは同じです。例えば、アッラーの唯一性を信じること、ムスリムは毎日5回のサラート(礼拝)が義務です。マスジドが近くになくても、オフィスや学校や自宅でサラートができます。またザカート、ラマダーン月中の断食、メッカ巡礼の義務もあります。多神の信仰はどこに住んでいてもハラーム(4章48節)です。飲酒もハラーム(5章90節)で、日本に住んでいるからといって飲んでも大丈夫とはなりません。不倫もハラームです。そしてムスリムが義務を怠たり、ハラームを犯すのは、自己責任です。アッラーのせいではありません。なぜなら人間には自由意志があるからです。クルアーン3章117節には、「アッラーはかれらを損ないませんでした。でもかれらが自分自身を損なったのです」とあります。アッラーは人間に自分でよく考えるように多くの預言者を遣わし、多くの啓示を下したのです。 2つ目は非信者との関係で、さらに3つに分類されます。1つ目は非信者との一般的な関係、2つ目は非信者との特別な関係(婚姻)、3つ目はダッワ(布教)です。非信者との一般的な関係について、非信者だからだましてもかまわないと考えている人たちがいます。これは絶対いけません。非信者がムスリムと戦わず、家からも追放しない場合は、ムスリムは非信者にも公正かつ親切に接しなくてはいけません(60章8節)。アッラーは非信者をだます許可を与えません。 さらに、ムスリムは非信者から嫌がらせをされても、広い心で接する必要があります。例えば、マスジドで排尿したアラブ遊牧民のハディースは有名です。預言者ムハンマドは、怒る教友たちを制止して、水で洗い流しなさいと命じました(ブハーリー6025)。別のハディースでは、ムジャーヒドの伝承によると、アブドゥッラー・イブン・アムルが家族のために羊を屠畜したとき、かれに対して、一部を隣人のユダヤ教徒に与えましたか?と言いました。私はアッラーの使徒がこう言ったのを聞きました。天使ジブリールが隣人に対して親切に丁寧に扱うよう私に命じ、それはまるで彼らを相続人にしろとのアッラーからの命令のように思えたほどでしたと(ティルミズィー1943:サヒーフ)あります。 非信者との特別な関係(婚姻)については、第2章221節に明言されています。「多神教の女性たちとは、かの女たちが信者になるまで結婚してはいけません。多神教の女性があなたがたをとりこにするかもしれませんが、信仰のある奴隷の女性の方が(多神教の女性よりも)善いのです。また多神教の男性たちが信者になるまで、あなたがた(信者)の女性たちをかれら(多神教の男性)に嫁がせてはいけません。多神教の男性があなたがたをとりこにするかもしれませんが、信仰のある奴隷の男性の方が(多神教の男性よりも)善いのです」 最後はダッワです。つまり非信者に対するイスラームへの招待です。イスラームとは何か?なぜムスリムは豚肉を食べないのか?なぜお酒を飲まないのか?など日本においては質問が多くあると思います。そのときに必要なことは良い態度と日本語によるイスラームの知識です。クルアーンの16章125節には「英知と良い話し方で、あなたの主の道に招待しなさい。最善の態度でかれらと論議しなさい」とあります。33章46節において預言者は「アッラーに人びとを招く人(ダーイヤン・イラッラー)」と記されています。預言者伝によると、預言者は現地の人びとをよく把握し、かれらの感情や希望、個人の性格に注目し、かれらを尊重し、良い関係を築き、親密さを増すように努力したことがわかります。たくさんの使節団がマディーナに来た時には大いにもてなし、帰る時には各人にお土産を持たせ、かれらの故郷においてイスラームを伝えるように要請したと言われています。
2020-03-03T13:09:04
クルアーン3章64節によると、「クル、ヤーアハルルキターブ(言いなさい。啓典の民よ)タアーラウイラーカリマティン、サワーインバイナナーワバイナクム(わたしたちとあなたがたとの間の共通のことばに来なさい)アッラーナアブダイッラッラー(わたしたちはアッラーにだけ仕え)、ワラーヌシュリカビヒーシャイアン(何ものをもかれに配しない)ワラーヤッタキザバアドナーバアダンアルバーバンミンドゥーニッラー(またわたしたちはアッラーを差し置いて、外のものを主として崇ない)ファインタワッラウ(それでもし、かれらが背き去るならば)ファクルシュハドビアンナームスリムーン(言いなさい、わたしたちはムスリムであることを証言する)」とあります。 ここにイスラームと他の宗教との関係が記されています。つまり共通の言葉を尊重するということです。その最初の共通点とは、アッラーナアブダイッラッラー(アッラーにだけ仕える)です。クルアーン112章1−4節には次のように記されています。クル・フワッラーフ・アハド(言いなさい。かれはアッラー唯一なり)アッラーフ・サマド(アッラーは自存され)ラムヤリド・ワラムユーラド(かれは産まないし、生まれたのではない)ワラムヤクッラフークフワンアハド(かれに比べ得る何物もない)とあります。この112章が本当の本物の神を見極める試金石です。この112章の条件が全てクリアされることが、ムスリムがそれを神と呼ぶための必要条件です。 同じ啓示は旧約聖書の申命記6章4節によると、ヘブライ語で読むとモーセは次のように言ったと記されています。「(シャマーイスーラエーロー・アドナイ・イラーハイノ・アドナイイハッド)聞きなさい、イスラエルの民よ、われわれの神、主は唯一の主である」と言っています。イエス・キリストは、最初の戒めは何かと聞かれたとき、モーセが言った全く同じフレーズを、そのまま繰り返しました。マルコによる福音書12章29節によると、「(シャマーイスーラエーロー・アドナイ・イラーハイノ・アドナイイハッド)聞きなさい、イスラエルの民よ、われわれの神、主は唯一の主である」と、これ以上ない明確さで神は唯一であることを言っています。 唯一の神の名前については、ムスリムはアッラーと呼び、キリスト教はゴッドとかロードとか呼びますが、実は聖書によると、神の名前はアッラーであることがわかります。マルコによる福音書15章34節によると、イエス・キリストが十字架に架けられてこう叫んだと記されています。「そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」とあります。イエスの言葉であるアラム語「エロイ」が聖書にそのまま残されています。その意味は「わが神」ですが、「わが」に相当するのがエロイのイです。これを除くとエローが残ります。その意味は神ですが、エッローとアッラーは発音とても似ていることがわかります。ゴッドという発音はエッローとは程遠いことがわかります。「エロイ、エロイ」とは「アッラー、アッラー」のことを指していたのです。どの聖書を選んでも、このエロイ、エロイ、ラマ、サバクタニが記されています。 1909年、8名のキリスト教神学博士によって共編されたスコフィールド聖書(オックスフォード大学出版会)によると、旧約聖書の創世記第1章1節「はじめに神(エローヒム)は天と地とを創造された」の脚注として、エローヒムの語源としてエルとアラーが記されています。Alahとあります。 「注1:エローヒム(Elohim)、エル(El)またはエラー(Elah)とは、3つの神位のうち第1位の御名(みな)で英語訳の「神」に相当し、力、強き者を意味するエル(El)と、アラー(Alah)から成り立つ複数一体名詞(uni-plural noun)で、宣言もしくは誓約によって自らを律する(つまり敬虔さを表現する)対象である」(スコフィールド聖書p.3) だからイスラームにおいてもキリスト教においても、神は唯一アッラーという点で共通しているのです。 そしてクルアーン4章48節では唯一の神の他に神を信じることへの注意喚起がなされています。「(インナッラーハ・ラーヤグフィル・アンユシュラカビッ・ワヤグフィル・マードゥーナ・ザーリカ・リマンヤシャー)本当にアッラーは、かれに並置されることは赦しません。でもそれ以外のことについては、御心にかなう人を赦されるのです。アッラーに並置する人は、誰でも大罪を犯しているのです」とあります。同じ言葉はクルアーンの4章116節でも繰り返されています。イスラームではアッラー以外に他のものを神として崇めることは、唯一赦されない大罪なのです。 聖書においても同じ言葉が記されています。出エジプト記20章3−5節と申命記5章7−9節いわく「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない。あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」とあります。 だからクルアーン5章72節では、イエス・キリストを神とすることを強く批判しています。「アッラーがマルヤムの子マスィーフであると言う人は、間違いなく信仰を拒否しました。一方、マスィーフは言いました。イスラーイールの子孫よ、わたしの主であり、あなたがたの主であるアッラーを信仰しなさい。およそアッラーに何ものかを並置する人には、アッラーは楽園を禁じられ、その人の住まいは地獄の火です。不正を行なう人には援助者はないのです」 マスィーフとはイエス・キリストのことですが、ここにはマスィーフが言いましたと記されています。イエスが何を言ったのかといえば、「わたしの主であり、あなたがたの主であるアッラーを信仰しなさい。およそアッラーに何ものかを並置する人には、アッラーは楽園を禁じられ、その人の住まいは地獄の火です」と言ったのです。だからイスラームとキリスト教においては共に、唯一の創造主の他のものを崇めることは大罪なのです。残念ながら、クリスチャンの方々は、イエス・キリストが神であると言います。これは大罪なのです。聖書を読んでも、イエス自身が「私が神である」とか「私を崇拝しなさい」といった発言は一切ありません。本当はむしろ逆です。聖書によるとイエスは次のように言いました。 ヨハネによる福音書14章28節、「父はわたしよりも偉大な方である」。 ヨハネによる福音書10章29節、「父は全てに勝って偉大である」 マタイによる福音書12章28節、「わたしは神の御霊(みたま)によって悪霊を追い出す」 ルカによる福音書11章20節、「わたしは神の指によって悪霊を追い出す」 ヨハネによる福音書5章30節、「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままに裁くのである。そして、わたしのこの裁きは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされた父の、み旨を求めているからである」イエスは決して自分の神性を主張しませんでした。逆に、「わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされた父の、み旨を求めている」と言っています。つまりイエス・キリストは唯一の神のみ旨(つまり意志)に従う人であり、それをアラビア語ではムスリムと呼びます。イエス・キリストは唯一神に従うムスリムなのです。 使徒言行録2章22節には次のようにあります。「イスラエルの人たちよ、聞きなさい。あなたがたがよく知っている通り、神によって認められた人間ナザレのイエスは、神が彼を通して、あなたがたの中で行なわれた数々の奇跡と驚異と印により、神からつかわされた者である」とあります。だからイエス・キリストは人間であり、神から遣わされた預言者であったのです。イエス自身決して神性を主張しませんでした。ヨハネによる福音書14章24節いわく「あなたがたが聞いている言葉は、私の言葉ではなく、私をつかわされた父の言葉である」ヨハネによる福音書17章3節いわく、「永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と記されています。 またイエス・キリストは神の子ではありません。クルアーン112章3節には「(アッラー)は産まないし、生まれたのではない」とあります。ルカによる福音書22章70節いわく「彼らは言った。では、あなたは神の子なのか。イエスいわく、汝らはそのように言う」と言って質問をかわしています。ローマ人への手紙8章14節いわく「神の霊によって導かれる人は皆、神の子たちなのです」とあり神の子とは敬けんな信者の比喩表現だとわかります。 イエス・キリストははっきり言っています。天国に入ることができる者はイエス・キリストを神と信じる者でもなく、イエス・キリストが人類の罪を背負って死ぬことでもありません。三位一体や贖罪(しょくざい)という言葉そのものは聖書に記載がありません。マタイによる福音書5章17ー19節いわく「わたし(イエス)が律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅びるまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだからこれらの最も小さい戒めの1つでも破り、またそうするように人に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これを行ないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」あります。つまり、モーセに啓示された律法を完全に実行することがイエス・キリストの目的だったです。 マタイによる福音書19章16〜17節いわく、「ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、先生、永遠の生を得るためには、どんな善いことをしたらいいでしょうか。イエスは言われた、なぜ善い事についてわたしに尋ねるのか。善い方はただ1人だけである。もし命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい」とあります。
2020-03-02T09:13:18
タウヒードとシルクについて タウヒードには3つの要素があります。 1)ルブービーヤ、2)ウルーヒーヤ、3)アスマー・ワ・スィファー 1)ルブービーヤ(ラッブ:神の行為をする存在:創造や養育など) アッラーが全てのものの唯一の主であり、所有者であること。善や悪も害や益も全てアッラーからのものであり、かれが唯一の創造主であり、かれが全世界の唯一の管理者であること。人間はその天性によって、またこの世を注意深く観察することによって、タウヒード・アッ=ルブービーヤを認めることができます。しかしタウヒード・アッ=ルブービーヤを認めるだけでは、アッラーへの信仰とその懲罰からの救いにまでは至りません。というのもそれは、イブリース(悪魔)やムシュリク(偽信者)たちすらも認めていたことなのです。無明時代にも人々は創造主としてのアッラーを信じていましたが、他に多神も崇拝していました。 かれは全てを包囲される御方であり、全ての事柄を適切に定める御方であり、全てのものを支配する御方であり、全てのものの所有者であられる唯一なる御方です。「大権を掌握なされる方に祝福あれ。本当にかれは全てのことに全能である」(67章1節) 2)ウルーヒーヤ(イラー:崇拝される存在):ラーイラーハ・イッラーッラー アッラーのみが崇拝されるにふさわしい唯一の方であり、そこにおいてかれに並ぶものは存在しないこと。かれの他に崇拝されるもの全てのものは虚無であること。ドゥアー(祈願)やサラー(礼拝)、畏怖や願望などあらゆるイバーダ(崇拝行為)においてアッラーのみを対象とすることです。タワックル(身を完全に委ねること)や畏怖や願望の念、また犠牲や誓いなどあらゆるイバーダ(崇拝行為)はただアッラーに対してのみ向けられなければならず、何か別のものに逸らせてはならないということ。そしてイバーダ(崇拝行為)をアッラー以外の何ものかに対して向ける者は、ムシュリク であり不信仰者であるということ。「そして(その正当性に)何の論拠もない他の神をアッラーに並べて祈願する者の報いは、かれの主(アッラーのこと)の御許にある。本当に不信仰者たちには勝利はない」(23章117節)ウルーヒーヤはルブービーヤを必須条件とします。つまりアッラーのみを崇拝し、かれに何ものをも並べない者は、アッラーが彼の主であり、創造主であり、支配者であることを既に確信していることになるのです。 ルブービーヤとウルーヒーヤはその意味が異ります。つまり前者の語根である「アッ=ラッブ(主)」は養育者、所有者、支配者という意味ですが、後者の語根「アル=イラー(崇拝される存在)」は、真に崇拝される権利を有する唯一のもの、という意味です。言いなさい。「御加護を請い願う。人々のラッブ(主)、人々の王、人々のイラーに」(クルアーン114:1-3) ジャービルは言いました:「預言者のもとに男がやって来て、言いました。アッラーの使徒よ、2つの確実なことは何か?」すると預言者は言いました:アッラーと共にいかなるものも並べずに死んだ者は天国へ入り、アッラーに何ものかを並べて死んだ者は地獄に入るということだ」(ムスリムの伝承)93 アブドッラー・ブン・アムル・ブン・アル=アースによると、アッラーの使徒は言いました。「アッラーの預言者であるヌーフは、彼の死期が近づいた時に息子に言った。私はお前に遺言を伝える。私はお前に2つのことを命じ、2つのことを禁じよう。私はお前に、アッラー以外に崇拝すべきものはなしの言葉を命じる。本当に7層の天と7層の大地が秤の一方に置かれ、もう一方にアッラー以外に崇拝すべきものはなしの言葉が置かれたとしても、アッラー以外に崇拝すべきものはなしの言葉の方が重いのである。また、崇高なるアッラー、かれを称えますという言葉である。実にそれはすべての祈願であり、それによって被造物は糧を得る。そして私はお前にシルクと傲慢さを禁じる」(アル=ブハーリーの伝承) タウヒードの対義語がシルクである。つまりシルクとは、アッラーに対し、ルブービーヤ、ウルーヒーヤ、アッラーの美名と特性において同位者や関与者をおくことです。そして審判の日にムシュリクとしてアッラーに会うことになれば、アッラーはその人物を赦しません(4章48節、4章116節) ムスリムは自分に限ってシルクを犯すことなどないと思っているかもしれません。でもムスリムは必ず大きなチャレンジに直面します。 アッラーに対してシルクを犯すことは、最大の罪悪です。アッラー以外のものを崇拝するものはイバーダ(崇拝行為)を間違った形で行い、それを本来ささげるべき御方以外のものに捧げているからです。 アブー・バクルは伝えています:「預言者はこう3回繰り返し言いました:大罪の内でも最大のものを教えようか?(人びとは)言いました:はい、アッラーの使徒よ。(預言者は)言いました;アッラーに対してシルクを犯すこと、そして親不孝だ。そして(預言者は)座ると、寄りかかってこう言いました:そして嘘である」(アブー・バクルは)言いました(アル=ブハーリーとムスリムの伝承) シャイターン(悪魔)を崇拝することは、シルクと不信仰へと導く法・制度に従うということです。アッラーは、この人類の敵に対して、次の御言葉で私たちに警告なされています。アーダムの子孫よ、悪魔に仕えてはならないと、われはあなたがたに命令しなかったか。かれはあなたがたの公然の敵である。アーダムの子孫よ、悪魔に仕えてはならないと、われはあなたがたに命令しなかったか。かれはあなたがたの公然の敵である。あなたがたはわれに仕えなさい。それこそ正しい道である。(クルアーン36:60-61) シルクとはイバーダ(崇拝行為)そのもの、あるいはその一部をアッラー以外のものに捧げることを意味します。例としては死人やジン(霊的存在)、シャイターン(悪魔)など、アッラー以外の何ものかにドゥアー(祈願)したり、誓いを立てたりすることや、アッラー以外にはその権能を有しないものに富の獲得や病からの治癒、あるいは必要事や雨天の到来などを頼んだりすることが挙げられます。無知な者たちは、聖者や正しく偉大であった人物の墓や、または木や石などからできた偶像に対してこれらのことを行います。 ②タワックル(自らの身を完全に委ねること)におけるシルク:全ての事柄と状況においてアッラーにタワックルすることは、アッラーのみに対して純粋な形で行わなければならない、最も偉大なイバーダ(崇拝行為)の1つです。それゆえ、アッラーのみが権能を有されるもの-つまり害悪の駆除や利益、糧の獲得など-において、アッラーを差し置いて死者や不在者などにタワックルする者は大シルクを犯していることになります。至高なるアッラーはこう仰せられています:そしてあなた方が信仰者であるのなら、アッラーにこそタワックルするのだ。(クルアーン5:23) 「ターグート」はアッラー以外に崇拝されるあらゆるもの。本当にわれら(アッラー)は、各々の民に使徒を遣わして、「アッラーを崇拝し、ターグートを避けなさい」と命じた(16章36節) ターグートとは、偶像などのような崇拝の対象であれ、占い師やえせ学者などのように人びとが依拠・追従する人たちであれ、あるいはアッラーへの服従から逸脱した王族、官僚や首長などの支配層たちであれ、アッラーのしもべがそれらにおいてタウヒード信仰の規範を超えてしまっている全ての対象を指す。 ターグートの代表的なものは5種類です: ①イブリース(悪魔) ②崇拝され、そうされることに満足する者 ③人びとを自らの崇拝へといざなう者 ④不可知の領域に関する知識を有すると主張する者 ⑤アッラーが啓示されたもの(イスラーム法規定)以外のもので裁く者 「アッラーは信仰する者の守護者で、暗黒の深みから、かれらを光明の中に導かれる。信仰しない者は、邪神〔ターグート〕がその守護者で、かれらを光明から暗黒の深みに導く。かれらは地獄の火の住人である。永遠にその中に住む」(2章257節) アブーフライラが伝えたところによると、アッラーの使徒は言われた:アッラーの影の他には影がないその(審判の)日、かれは(次の)7人をご自分の影に入れる。公正なイマーム、アッラーを信仰する中で成長した青年、マスジドに心がつながっている人、アッラーのために互いを愛し、アッラーのために集い、そしてかれのために分かれる2人、1人きりでアッラーを想い、両目から涙が溢れる人、地位と美貌を持つ女性に声を掛けられても「私はアッラーを恐れる」と言う人、左手が右手の行なった施しに気付かないほどに隠れて施しを行なう人である(ティルミズィー2391) 3)アスマー・ワ・スィファー アッラーのみが究極の属性を有し、あらゆる短所や欠陥から無縁で完璧であること(20章8節)